映画「何者」を観た。俺ら、何者にもなれないってよ。
「俺が朝井リョウの小説『何者』を読んだのはいつだっただろうか」そう思い、mixiの日記に書いていたはずなので見てみた。
日記によれば、朝井リョウの小説『何者』を読んだのは2012年の12月10日らしい。
物語の面白さとスリルに打ちのめされて一気に最後まで読んだ事を覚えている。
数年前の自分の日記やつぶやきを読み返したらコメント欄に「退会したユーザー」の文字が並ぶ、まるでもう誰もいなくなった惑星に一人不時着したような孤独感すら感じる。
ある日の日記のタイトルが「さっき塩タンタン麺と入力しようと思ったら、間違えて塩タイタン麺になっていて焦ったのは内緒だよ。」で我ながら「くだらねー」と苦笑いしてしまった。
ちなみに遡って読んでみると、その日記を書いた何日か前に朝井リョウの小説『もう一度生まれる』を読んでいた事がわかった。
あの頃の俺に言ったらどんなリアクションするだろうか「レンタルビデオ屋さんに迷い込んできた野良犬がマドンナのMVをジッと見ていたのを目撃したことがある」だなんて事をmixiの日記に書いていた俺に。
もっとmixiを遡れば、もしかしたら『人間失格 三浦大輔戯曲集』を読んだ事が書いてあるかもしれないと思ったけれど、5、6年前の自分の日記を読み返し続ける作業は疲れるし気恥ずかしさもある、それに古傷をえぐるような内容と正面衝突したり、堰を切ったように懐かしさがあふれそうになりそうなのでやめておいた。
人気女優俳優の勢揃いの顔ぶれを見て「就活をする大学生の青春譚」とだけ思い「甘酸っぱい恋愛があるのかなー?佐藤健イケメン、有村架純可愛い!」なんてほんわか思っている少年少女たちに夢を一切見せない容赦なきシビアな世界。青春時代真っ只中を抜け「そろそろ進路を考えた方がよくね?」と思っている若者たちが見たらなかなかに心に刺さるものがあると思う。
の終わりの前夜祭のような賑やかさとは裏腹に就職のシビアな現実も描かれていく。
物語の主人公は全員大学生、高校卒業してすぐに働き始めたので大学には行っていない俺ですら高校中の就職活動の気まずさを思い出してしまう程だった。
履歴書を書く度に武器の少ない己のステータスを目の当たりにしているようで苦しかった事、電車に揺られ見ず知らずの町に行き就職試験を受けに行くのはすごく不安だった事、「働く」と決心した俺宛に送られてくる専門学校のパンフレットを「働くと決めたのに送ってくんなよ、学校」と不条理な怒りが込み上げた事。
そんな高校生の頃にTwitterをやっていたらどうなっていただろうか。
映画でも原作小説でも「何者」の物語においてTwitterは重要なツールとなっている。
こんなタイトルをつけてしまうのだから「何者」に登場する「烏丸ギンジ」の存在は直視するのがちょっとキツかった。「激団 毒とビスケット」を主催し演劇の世界で活動している人物だ。
劇団ではなく「激団」と称している辺りがなんか、もう、なのである。
菅田将暉演じる「神谷光太郎」がボーカルギターのバンド「OVERMUSIC」このバンド名もなかなか、こう、ニヤニヤしてしまうものがある。
解散後、明るかった髪色を黒に染め就活すると拓人に話す光太郎。
映画「何者」の物語は就活を軸に動き出し、瑞月の友達二階堂ふみ演じる理香と意気投合し四人は就活へと打ち込んでいく。
そんな四人へ「就活はしない」と話す、理香と同棲中の岡田将生演じる隆良、このキャラクターが絶妙だった。
自転車、飲んでるビール、クラッチバッグ、丸メガネ、本、服!「こういう人、いる!」感がたまらない。オシャレ極めまくりのあの感じ。クリエイター系男子隆良と拓人のバイト先の先輩である、山田孝之演じるサワ先輩が物語に絶妙なスパイスをふりまく。
そしてかつては二宮拓人と演劇活動をしていた烏丸ギンジも物語のキーパーソンとなっていく。
就職先が決まらず苦悩する拓人、一方の烏丸ギンジは演劇活動を続けている。
自分が熱中したもの好きなものを糧に表現者として生きるギンジ、誰もが青春時代に憧れてしまうシチュエーションである。
この「Twitterというツールを物語に落とし込む感じ」が心地良かった。
それぞれの登場人物のTwitterの作り込み具合、そしてTwitterの頻度もいい、拓人は常にスマホを気にしているが光太郎や瑞月はあまりそういう描写がない。拓人が光太郎と瑞月へ、隆良と理香のツイートを見せ「何で直接話さないんだろうね」というようなセリフをしゃべるシーンがあるのだが、あのセリフ後の光太郎と瑞月の気まずい沈黙、なんだろうかあのリアルな感じは。
劇中で拓人の吐くタバコの煙のように、まとわりつく全てを煙に巻いて呼吸し続けることは実は息苦しい、天真爛漫な光太郎と純粋無垢な瑞月の存在が冷静に分析する事で自分を守っているつもりの拓人にはきっと眩しく感じるのではないかと思う。
何気ない爽やかな青春群像劇と思いきや、自意識や人間の妬みや嫉み、痛みが混じり合う苦い青春。
巷に流行する甘酸っぱく胸きゅんな恋愛青春映画に「リアルと思い通りにならない絶望」という鉄槌を振り下ろすかのような作品である。
意識高い系と揶揄され就活活動に打ち込む理香、ネットで辛口評価を受けながらも演劇を続ける烏丸ギンジ、内定を得た光太郎と瑞月、誰の生き方もきっと大変なのだ。現実はドラマチックにはいかない。
映画「何者」は、後半あるシーンを境に物語が豹変する。まるで物語のベールが取られ、三浦大輔演劇のメソッドが脈々と流れる物語の心臓を見せられたかのようなハッとする瞬間だった。
青春時代の終わらせ方をわからない拓人の孤独が胸に残る。
きっとこんなブログも「映画 何者 拓人」でエゴサーチした拓人から暗い部屋で読まれて冷笑されるのだろう。
入れ替わるのは映画「君の名は。」だけじゃなかった「イタい」と「笑い」が入れ替わるコント師 うしろシティ。「うしろシティ 星のギガボディ」を聴いた。
「先生、じゃあ今度はベルベット・アンダーグラウンド流して下さいよ」
中学生の頃、英語の授業の時に先生がビートルズの曲を流してくれる事があった。
ある日の授業中、いつものようにビートルズの曲を流し終えた先生へ向って俺が言った言葉がそれだった。
ベルベット・アンダーグラウンドなんて名前しか知らないくせに、背伸びしたかったのだろう。
先生は少し苦笑いしながら「CDはどこかな?」と言ってくれた。
俺はCDは持っていなかった、ベルベット・アンダーグラウンドは流れずに英語の授業は終わった。
こんな思春期特有の「イタい」や「ダサい」が持つ独特で歪な「笑い」をコントに落とし込んでるコンビがいた。
阿諏訪と金子の2人によるお笑い芸人「うしろシティ」である。
学生に扮した2人が次の文化祭でバンドをやろうと計画する。金子は「いいよ!」と軽く承諾するも阿諏訪が考えてるバンド名や曲名の独特な発想に顔色が変わるコントや、バンド系で言うと記憶喪失になった金子に同じバンドの阿諏訪が「何も覚えてないのか!?」とバンドの名前やコンセプトを説明するという金子の「世界観強ぇな!」のツッコミが炸裂するコントも忘れ難い。
かつての「キングオブコント」決勝でも披露された、いかにも上京しそうな阿諏訪を金子が「阿諏訪くんみたいな人、いっぱいいるけど大丈夫!?」と不安そうに引き止めるコント、上京に憧れすぎてこじらせてる阿諏訪の若者描写が巧みですごく面白かった。
うしろシティのコントのセンスがすごく好きだ。
ある種古典的な「ぶつかった二人が入れ替わる」というテーマもうしろシティの二人にかかればスタイリッシュに豹変する。
バイト先に急いでいた金子は入れ替わった阿諏訪にバイトへ行ってくれるように頼む「あそこのローソンなんで」「無理ですよ僕も今からあそこのセブンイレブンでバイトが」と言って焦っていた二人は「大丈夫そうですね」と落ち着く。
入れ替わっても意外に大丈夫だというこのコントがとにかく面白かった。
その後のお互いの彼女のくだりやスマホを巡るやりとり、オチの切れ味も全部好きでこのコントをキッカケにうしろシティのコントにハマりDVD「町のコント屋さん」「アメリカンショートヘア」「うれしい人間」を観てさらにハマっていった。
ラジオ「うしろシティのオールナイトニッポンR」をドキドキワクワクしながら聴いた。
ラジオ中に海外のバンド「コールドプレイ」の曲を流した阿諏訪はコールドプレイを知らないと話す金子に「コールドプレイ知らないの!?」と驚きを隠せなかったあのやりとりが印象的だった。
一時期この番組にどハマりした俺は過去放送を聴き漁っていた。
ある日遠出するために車で出かけた時があったのだがほぼずっと「デブッタンテ」の過去放送ばかり聴いて運転していたのが懐かしく思える。
特にうしろシティの阿諏訪のフリートークと流す曲のセンスが強烈に好きでそこに惹かれていった。
そして阿諏訪によるポエムの朗読から始まった。
「大地は雨を手に入れて海を作った
レンブラントは筆を手に入れて
カンバスを染めた
ボブディランはギターを手に入れて
音を紡いだ
岡本太郎は爆発して
ジョンレノンは平和をせがんだ
僕らは一体何を手に入れた?
何を手に入れる?
そんな過去と自分と未来を照らす
みんなの心 ギガボディ
人間誰しもが持つギガボディの部分
それは時代を越えて
流動的に繰り返されるエレメント
そんな当たり前の事を考えながら
町を背に僕は行く
さぁ みんな 始めよう
今日もこりずに
夜がやってきたようだ」
ひっくり返りそうになる程、衝撃的なオープニングだった。
「何やってんだよ」と驚く金子、その後もポエムについて話す阿諏訪にツッコミをいれていく金子の発言にニヤニヤしてしまった。
第二回放送のネタコーナーで出てきた「バルログ」という単語からストリートファイターの話へ。バルログを好きで使っていたという阿諏訪、阿諏訪が当時聴いていたストリートファイターのCDの話で盛り上がる。
こういう懐かしさのあるエピソードトークが俺は本当に好きだ。
アルコ&ピースのANNが全然全部無くなってチリヂリになったってもう迷わない1から喋り始めるさむしろTBSからラジオを始めてみようか「アルコ&ピース D.C.GARAGE」の初回放送を聴いた。
あの頃俺は「アルコ&ピースのオールナイトニッポンゼロ」「アルコ&ピースのオールナイトニッポン」の過去放送を聴く事が生きがいだった。
アルコ&ピースというコンビは「レッドカーペット」や「レッドシアター」などのネタ番組で何度か見た事があった。
バイトの面接を行う若者と店長の立場が入れ替わる「逆面接」などコントの設定が面白くて好きだった。
テレビで見た事があるのはネタのみ、つまりコントの世界のアルコ&ピースしか知らなかった。
だが「アルコ&ピースのオールナイトニッポンゼロ」を聴いて驚愕する、コント以上に二人のラジオは面白かった。
「ナインティナインのオールナイトニッ本」の付録CDを聴いて深夜ラジオの面白さに打ちのめされた俺は、気になった深夜ラジオの過去放送を聴き漁りまくった。
そこで出会ったのが「アルコ&ピースのオールナイトニッポンゼロ」「アルコ&ピースのオールナイトニッポン」なのである。
エリッククラプトンとローリングストーンズという大御所の海外ミュージシャンが来日中という事にちなみ、アルコ&ピースの二人がクラプトン派、ストーンズ派に分かれて対決するという回があった。両ミュージシャンに強い思い入れが無い二人だったので煮えきらない空気だったが、「クラプトン派」「ストーンズ派」のそれぞれのメールを読んでいき、負けた方は自分のミニ四駆のパーツを一つずつ没収されるというルールが追加されたことにより、ミニ四駆にハマりだしていたアルコ&ピースの二人は一気にヒートアップする、ミニ四駆のパーツをかけた勝負に一喜一憂する二人、とにかくこの放送がめちゃめちゃ面白くてこの回をキッカケに一気にアルコ&ピースのラジオにのめり込んだ。
それまでの印象はコントのキャラクターを演じる「アルコ&ピース」だったのだが、ラジオを聴いているとコントのキャラクターではなくコント師「アルコ&ピース」としての「平子」と「酒井」の人間味がわかってきてそれもまた面白かった。平子のフラッシュモブについてのエピソードトークはめちゃめちゃ面白かったし、平子に対して冷静にツッコミを入れる酒井も面白かった。
2014年のとある放送日が「世界海賊口調日」という事で「退屈な日常から抜け出したい奴らが自由を求めて番組という名の船に乗り、放送という名の大海原を電波に揺られて旅をする」と海賊とラジオも一緒だと吠える平子、オープニングから神回の予感が漂うこの回は「全国にいるすごいラジオDJ」をリスナーから募集。インパクトのあるラジオDJの紹介が相次ぎ震え上がる二人のテンションに笑いを堪えきれなかった。
クリスマスが近づいてきている12月、スペシャルウィークも終わり、今回はゆるやかなラジオにしようと「最高のクリスマスプレゼント」と題してラジオを始めようとする平子、だが一筋縄ではいかないのがアルコ&ピースのラジオなのである。
平子の息子「イチルくん」がスタジオにいない!と気付いた酒井は「いつもスタジオに連れてきてるみたいになるから」と言う平子の言葉に耳を貸さずどんどん間違った推理を進めていき「イチルくんが家にひとりぼっちじゃないか!」と叫ぶ、流れるBGM「あ!ホームアローンだ!何だ今日ホームアローンやんのか!?」と平子が言う、またも神回の予感である。映画「ホームアローン」にちなみ「ひとりぼっちで家にいるイチル君に空き巣に入られないためのアイディア」をリスナーから募集、映画「ホームアローン」にちなんだアドバイスもあるがとんでもない発想のアドバイスもあり、とにかくこの放送も笑いを堪えきれなかった。「BOSEのスピーカーでRIZEの曲を流して聴いてる」というネタが一番面白かった。
ラジオという密室で二人の声だけで作り上げられていくラジオはリスナーの想像力を駆り立てる。
アルコ&ピースのラジオももちろんそう、海賊、ホームアローンなどのテーマにちなんだメールにより「ラジオコント」は白熱していく。
「劇場型ラジオ」とも評されるこの世界観が魅力的である。
劇場型、或いは「アルコ&ピースのオールナイトニッポンゼロ」から「アルコ&ピースのオールナイトニッポン」へ昇格しその後まさかの「アルコ&ピースのオールナイトニッポンゼロ」へ戻るという激動型のラジオだったこの番組、永遠に続くかと思ったこのラジオも最終回を迎えた。
ラジオが終わる事を知った瞬間、思わず俺は「嘘だろ」と呟いてしまった。しかし嘘では無かった。
アルコ&ピースのオールナイトニッポンゼロは終わった。
2016年秋、最終回から時は経ち、TBSラジオにてアルコ&ピースのラジオが始まる事を知った瞬間に、俺は思わず「嘘だろ」と呟いてしまった。しかし嘘では無かった。
「アルコ&ピース D.C.GARAGE」が始まったのだ。ワクワクしながら初回放送を聴いた。
2012年の「THE MANZAI」で披露した代表ネタ「忍者」を彷彿とさせるようなオープニングでのやり取りにニヤニヤしてしつつ、番組の最後までアルコ&ピースのラジオが始まった嬉しさを噛みしめながら聴いていた。番組名にある「D.C.GARAGE」の「D.C」についての説明のヤバさは相変わらず面白いし、コーナーについての説明の時にRADWIMPSの「前前前世」が流れてきた時はめちゃめちゃ笑ってしまった。大好きな曲なのだけれど。
真夏に放たれた「芸人キャノンボール2016 in summer」という豪速球
「あの年の夏はみんなポケモンGOばかりやっていたよな」
この先何年か後の夏、今日みたいに暑い八月、きっと誰かがそんな事を言うと思う。
そしたら俺はこう言いたい「あの夏って、芸人キャノンボール2016があった年だよね」と。
まだまだ茹だる炎天下の夏の夜、その番組は突如として出現した。
「芸人キャノンボール2016 in summer」
番組のタイトルだけでは、どんな内容かはわからない視聴者がほとんどだろう。
600分あるこの作品が120分弱に編集され「劇場版テレクラキャノンボール2013」として映画館で公開された。
口コミで噂は広まり、異例の大ヒット。爆発的なブームを巻き起こした「テレキャノ」はその後、「劇場版BiSキャノンボール」として再び銀幕へと蘇った。
BiSというアイドルの解散ドキュメンタリーをAV監督たちが撮影するという衝撃的なその内容はさらなる話題を呼んだ。
そしてついに2016年の元旦に「芸人キャノンボール」がテレビで公開された。
「テレキャノ」の「AV監督が各エリアで一般女性をナンパしながら車やバイクでゴール地点を目指してレースする」ルールを「芸人が各エリア毎に出されたお題に合った(にらめっこが強い人 など)人をスカウトして対決、車でゴール地点を目指してレースする」として落とし込んだこの番組。
「テレクラキャノンボール」の本来の持ち味である「ドキュメンタリーとしての面白さ」を抽出した「芸人キャノンボール」俺はオープニングしか観る事が出来なかったのだが、番組冒頭から意気揚々と喋る出川哲朗の胸元にキックを喰らわす有吉弘行の映像を観る事が出来ただけで俺は大満足だった、幸せな元旦。
「ドキュメンタリー」としてそこに描かれているリアルと本音に打ちのめされた、ビーバップみのるさんの軽妙洒脱な語り口はモノマネしたくなるくらいに面白いし、クライスラー3000を操る嵐山みちるさんはとにかくカッコよくて憧れる。
BiSキャノンボールなんてBiSメンバー全員と恋に落ちかけそうになるくらいに蠱惑的な魅力があった、BiSについて全然知らなかったけれどこの作品がキッカケで曲を聴くようになった。
振り返っていたら、堰を切ったように「キャノンボール」シリーズへの思いの丈が流れてきた。
だから「芸人キャノンボールがこの夏復活!!」という言葉に心が踊った。
しかも夏というのがいい。
真夏に芸人が「笑い」を求めてレースをする、最高の企画だと思う。
とにかくワクワクした。
「TV版芸人キャノンボール2016 in summer」という文字が画面片隅に見える。
何気ない街の映像が流れ始める。
ローカル番組にゲリラ出演する芸人たちを映す様々なテレビ、それを見つめる人、通り過ぎる人。
そのバラエティ番組とは思えない雰囲気に戦慄した、とにかくカッコ良かった。
「今から始まる番組は普通のバラエティ番組じゃないんだ」と思った。
番組の演出・プロデューサーである藤井健太郎のツイートの言葉を借りるならば「芸人キャノンボールはドキュメントでドラマでバラエティ」という事だ、劇団ひとりがポケモンGOしようぜと言い始めたりとにかく自由奔放。そして今回も出川哲朗の胸元目掛けて有吉弘行の蹴りが炸裂、それが合図かのように芸人キャノンボールが始動する。
車へ乗り込む芸人たち。
胸が高鳴る。
芸人キャノンボールがある夏が始まる。
バカリズムの策略家っぷり、「これがキャノンボールだから」と呟くクールすぎるおぎやはぎ小木、田村淳の頭の回転の速さと人を楽しい事へ巻き込む類稀なる才能、ニヒルに笑いながら切れ味鋭い言葉を放つ有吉弘行、水着ギャルにガラケーを笑われながらもチームの仲間に嬉しい報告を知らせるケンドーコバヤシ、アンガールズ田中が巻き起こすサスペンス映画さながらの事件、バイきんぐ西村が歌う尾崎豊などとにかく見所だらけの豪華絢爛な番組だった。
観ている間ずっと面白くて、久しぶりにテレビ番組をワクワクしながら観た。
番組の終盤「もうすぐこのレースも終わるんだ」と思うと正直切なくなってしまった。
夜の道路、芸人たちを乗せた車が駆け抜けていく。
夜の道路を走る車の車内、なんだろう、あの切ない雰囲気は。
昔、高校を卒業して働き始めたばかりの頃、友達何人か、男だけで夜中にカラオケをして「なか卯」でうどんを食べて、くだらない話をしながらあてもなくドライブをしたあの日の事を思い出す。
「誰か女子に電話してみよう」と言ってドキドキしながら電話したり、そんなノリが新鮮だった。
友達が運転する車の助手席から見える、夜の街並みがいつもよりも澄んだような
感じがした。
「こんな楽しい夜なら終わってほしくないな」という切ない気持ちを滲ませながら車窓を眺めていると、時は無情にも夜を朝へと変化させていく。
「ハローもグッバイもサンキューも言えなくなって こんなにもすれ違ってそれぞれ歩いてゆく」
岸田繁の爽やかな歌声、夏になると聴きたくなる一曲だ。
切なさ、面白さ、様々な感情が駆け巡る「芸人キャノンボール2016 in summer」はドキュメントとバラエティーの壁を軽々と飛び越えた。
この夏に退屈している視聴者にぶつけられた「芸人キャノンボール」というたくさんのボールは、きっと「面白い」や「笑い」に飢えたモンスターたちを大量にゲットしただろう。
真剣にふざける、真剣に面白いことに取り組む、そんなお笑い芸人たちのカッコ良さがこの番組には詰まっている。
藤井健太郎さんの著書『悪意とこだわりの演出術』を読んだ。
中学生の頃、期末テストが憂鬱だった。
期末テストはもちろん嫌なのだけれど、他に何が嫌かって、期末テストが近くなると、放課後残ってテスト勉強していかなければならないのだ、あれが嫌だった。
もちろん居残り勉強は強制ではないのだけれど、クラスの大半が残って勉強しているのにそそくさと帰るのは気まずい。だからと言って勉強するのも気がのらない。
「帰りの会」が終わっても1時間くらいは残って勉強していかなければならないという暗黙の了解が、けだるい空気が漂う放課後の教室の中にゆっくりと沈殿していった。
しばらく時間が経つと、勉強に飽きてくる友達がちらほらと出現し始める。
そしてお互いに問題集を見ながら問題の出し合いが始まる。
最初は普通に問題に答えていたが、徐々にふざけた答えを言うようになり、後半は完全に「笑わせたやつが勝ち」という空気になる。
参加者も3人くらいから5人くらいに増え、賑やかになっていく。
思い切って俺もその「テスト勉強大喜利」に加わった。
俺の一言でみんなが笑う、もちろん笑わないこともある、その一喜一憂が楽しかった。
唯一覚えている自分の解答は、多分社会の問題だったと思う「民家すれすれを飛ぶ◯◯」の空欄を埋める問題。
問題文の隣には戦闘機の写真が載っていて「民家すれすれを飛ぶ梨花」と答えた。
世代的にロンハーなどで梨花がブレイクしていた頃だったから出てきた答えなんだろう、問題の内容が内容だけにちょっと不謹慎かもしれないが中学生だったしまぁそこは許してほしい、悪意はない。
ちなみにこの答えは、周りの友達に「言うと思った」と言われた記憶がある。
「つまんない」よりも「言うと思った」の方が受けるダメージはちょっと大きいと思う。
めちゃイケ、笑いの金メダル、エンタの神様、ロンハー、内P、深夜のはねトび、堂本剛の正直しんどいetc、中学という多感な時期にブラウン管の向こう側、面白いテレビ番組が冴えない青春時代を笑いで彩ってくれた。
時は流れて、高校生になり、そして今現在は社会人として働いている。
テレビ番組の移り変わりはあれど、「昔に比べて何曜日が楽しみ!という感覚は薄らいだな」と感じることはあれど、テレビ番組を見ていたし、ふとした瞬間に笑ったしまうのはテレビのバラエティ番組がキッカケである事が多い。
地獄の底から芸能界の頂へ、奇跡的な生還を遂げた有吉弘行をテレビで見ない日は無い。歯に衣着せぬ本音トーク、本質を見抜いたような毒舌、ニヒルな笑みを浮かべた有吉弘行は、ともすれば悪役のように映りがちだが映らない、まるで映画「ダーク・ナイト」のジョーカーのように憎めない。狂気とユーモアを、その瞳に宿らせていた。
もしも
「テレビ番組で一番面白かった有吉弘行
はどの有吉弘行ですか?」と聞かれたら、答えはもう決まっている。
「クイズ☆タレント名鑑」の人気コーナー「芸能人検索ワードクイズ」での有吉弘行だ。「やっつけ仕事」「虚言症」「修羅場」といういかにもなワードが並び散々ふざけた解答や際どい解答を連発し、「本能」というワードが出た瞬間に「はい、椎名林檎さん」とサラリと正解したあの瞬間の有吉弘行だ。
番組名だけ見れば一体どんな番組なのかはわからない、水曜日に放送されるダウンタウンの番組であることぐらいしかわからない。
記号的でありながらどこか不穏な雰囲気のする名前のこのテレビ番組は2014年に突如として出現した。
正直、熱心な視聴者では無く、時々番組を見る程度なのだが、忘れられない回がある。
視聴者から寄せられた様々な「説」を検証しプレゼンしていくこの番組、中でも印象的なのが「SADSの忘却の空サビを一発で聞き取れる人0人説」である。
もう最高だと思った。サビの聞き取りにくい曲としてSADSの「忘却の空」をチョイスするそのセンスに打ちのめされた。小学生の頃にドラマ「池袋ウエストゲートパーク」の再放送を見て衝撃を受け、高校生の頃は一時期この曲を着信音にし、大人になってからDVDで全話見たくらいに「池袋ウエストゲートパーク」好きな俺としてはたまらない説だった。
スタジオ内に「忘却の空」が流れ「すべて聞き取れたという方、いらっしゃったら手を挙げてください」と言った小籔千豊へ「そんなこともわかって、僕の声は聞こえてるか? って言うてんの?」とサビの最後の部分にかけて返す松本人志、「空の下」という単語をホワイトボードへ書く時に「いやこれ清春さんやったら宇宙って書く」と言って「空」の字の上に「宇宙」と書くたむらけんじ、「サラダを買うなら」と聞き取った浜田雅功、もう何もかもが面白くて、テレビの前でゲラゲラ笑った。
「逆ドッキリ逆逆逆くらいまでいくと疑心暗鬼になる説」「ホラー映画 製作者の都合でガチガチ説」「箱の中身は何だろうな? クイズ王ならマジで当てられる説」など他にも印象的な説はあったが、個人的にはやはり「忘却の空」の説が一番印象的だし、面白い。
SADSの「忘却の空」を面白がる、その着眼点が新鮮だった。
「クイズ☆スタータレント名鑑」「水曜日のダウンタウン」この二つの番組を手がけた人物こそが「藤井健太郎」である。
こんなにも面白く刺激的な笑いを作るこの人って、一体どんな人物なんだろうと
藤井健太郎の頭の中と人生が気になっていたタイミングで『悪意とこだわりの演出術』という藤井健太郎の著書が発売された。ナイスタイミングである。本屋の店頭、クリープハイプの尾崎世界観の小説の隣に並んでいた。尾崎の世界観よりも藤井の世界観の方が気になった俺は、急いで『悪意とこだわりの演出術』を購入した。
あまりの面白さに一気に読破してしまった。藤井健太郎の「面白い」の価値観な組み立て方、サンプリングの手法をテレビ番組へ用いるその巧みさ、全てが衝撃的だった。
「第3章 テレビマンの青春」も自伝的で藤井健太郎のパーソナルな部分が垣間見れたような気がして読んでいて楽しかった。
「クイズ☆アナタの記憶」でのオードリー春日へのクイズ、青春時代をあんなにも面白くクイズに出来るのかとその発想力に驚愕した。そしてめちゃめちゃ笑ったことを思いだした。「としあきパイとしあき」というロンブー淳さんの声が脳内でリフレインしている感覚。
水曜日のTVヒーローが仕掛ける新感覚の「笑い」にこれからも期待したい。
SADSの「忘却の空」のサビ、俺は「でたらめのチャイム鳴るかわしてる」だとずっと思っていたけど実際は違った。
狂犬は吠えるがめちゃイケは進む
「当たり前じゃねぇからなこの状況!」
仕事から帰ってきたばかりの疲れた身体に、リビングのテレビの画面から聞こえてきた加藤浩次の叫びが反響するようだった。
「あ、そうか今日のめちゃイケは」と思い途中から見始める。
「10年前に芸能界から消えた加藤浩次の元相方は今」「極楽とんぼ10年ぶりの共演」そんなテロップが画面上に並んでいる。めちゃイケで極楽とんぼの山本が復活する事は知っていたが、知っていたけれどもやはり目の当たりにすると、信じられなかった。
「これ逃したらもうなんにもねぇんだよ俺ら!」
山本が何故テレビに出る事が出来なかったか、何をしたのか、不祥事についてはこのネット社会調べるのには容易いだろう。当時ニュースで報道された時はショックを隠せなかった。
おそらく中学生の頃だろう。初めて「めちゃイケ」を観てそのあまりの面白さに打ちのめされ、毎週毎週土曜日が楽しみになっていった。
PTAが物議を醸したコーナー「しりとり侍」内での「プリソ」の一言だけで心底笑った、「ハイドロプレーニング現象」という言葉はきっと「数取団」を観ていなければ一生知ることはなかっただろう。「山奥」「スモウライダー」あの頃のめちゃイケには、俺がテレビの前でゲラゲラ笑っていためちゃイケには、まだ山本がいた、極楽とんぼがいた。
今まで観ためちゃイケの中で一番笑ったのはやっぱり加藤浩次。「フジテレビ警察24時」のコーナーで、突如テレビ局内に出現したダースベーダー、ダースベーダーが持つライトセーバーを奪い、そのライトセーバーを膝折りした加藤浩次だった。心底笑った。
10年ぶりの共演のスタジオには、山本を慕う山本軍団も集まっていた。その芸人たちの中にロンドンブーツ1号2号の田村淳がいた。歯に衣着せぬ痛快な本音トークがトレードマークの田村淳が泣いていた。
その後、極楽とんぼは謝罪し、徐々にいつもの「めちゃイケ」の雰囲気に戻りつつあった、そのタイミングで極楽とんぼの真骨頂「ケンカコント」が始まる。セットにぶつかり倒れる山本。10年ぶりのケンカコント、そこにエレファントカシマシの宮本の歌声がかぶさる。「さぁ頑張ろうぜ」と。
「お前のことな、いくら蹴っても苦情なんてこないんだよ!」
加藤浩次が渾身の一言を叫ぶ。
極楽とんぼとは唯一無二の二人組だったのだ。
彼らのケンカはどこかチープで漫画的だ、だからこそ笑えてしまうのだ。
「お前の輝きはいつだって俺の宝物」とエレファントカシマシ宮本が歌う。
山本の面白さが輝くからこそ狂犬加藤浩次の咆哮が際立つ。
二人の芸人の吠え魂が日本中に響き渡った夜だった。
山本が起こした不祥事を擁護・肯定するつもりは微塵も無い。
ただ俺は言いたいだけ「極楽とんぼは面白い」と言いたいだけだ。
森達也 FAKE を見た
白状しよう、高校生の頃、一度だけゴーストライターをした事がある。
夏休みが終わって2学期が始まる初日に、読書感想文をまだ書いていないという友達から「お前感想文とか得意だろ?ちょっと書いてくれ」と頼まれたので、よく読んでいたがまだ感想文は書いていなかった本を題材にしルーズリーフに感想を書いて渡したのだ。
あの騒動に比べれば、同じゴーストライターといえど天と地の差だ。
あの騒動。時は流れ2014年、この年ほど「ゴーストライター」という単語がテレビやネットで繰り返し言われた年があっただろうか。
と同時に「佐村河内守」「新垣隆」という人物名も飛び交う事になる。
ちなみにその年に開催された漫才の賞レース番組内に出場したあるお笑い芸人が披露した早押しクイズの漫才中にも「佐村河内」という単語が使われるぐらいだったから、世間への名前及び騒動の浸透率は計り知れない。
聴覚障害をもちながらも様々な優れた音楽作品を世間に発表してきた天才音楽家佐村河内守、しかし音楽家の新垣隆が沈黙を破り、佐村河内ではなく自分が作曲していたことや実は耳は聞こえていたことなどを週刊誌に告白した、一連の騒動の内容は概ねこんな内容である。
真実なのか嘘なのか、連日報道し白熱していたこの騒動も、日を重ねるにつれて徐々に落ち着き、2016年現在では「そんな事件もあったねー」と懐かしむような感想がほとんどなのではないだろうか。
そんな2016年、人々の記憶の中から事件が抹消されるかされないかの際どいタイミングで、佐村河内守のドキュメンタリー映画が公開される。
タイトルは「FAKE」監督は森達也。
直球すぎるタイトルにやや面食らいながらもやはり気になった。
森達也という人物は名前は知っていたが作品は見たことが無かった。
だけれどいつしか作品を見てみたいと思っていた監督だったのだ良いタイミングだった。
俺が人生で初めて見た森達也の映画作品は「FAKE」だ。
壮大な大高原や大海原は出てこない、手に汗にぎるアクションシーンは出てこない、ときめくような甘酸っぱい恋愛は出てこない、今をときめく豪華キャスト陣は勢揃いしていない。
大衆向けの娯楽映画とは極北の位置にあるようなこの「FAKE」というドキュメンタリー映画、しかしながらその生々しさと唯一無二の存在感に上映中はずっと釘付けだった。「ありのままの姿見せるのよ」大ヒットディズニー映画主題歌のあのキラーフレーズが脳内でリフレインする。
正直「見るんだ!?」と思ってしまった。
佐村河内騒動をまとめた著書がノンフィクション大賞を受賞した神山典士、その受賞式のプレゼンターに選ばれた森達也が「今佐村河内さんのドキュメンタリーを撮っていて」と受賞式で話すシーン、新垣隆のサイン会に並び対面するシーンの森達也さんのアグレッシブさはカッコ良かった。
真実をあぶり出すというよりは、騒動後の「今の」佐村河内の姿をカメラに収めた様に思えた。怒りは少なく苦しみや悲しみの色合いが強く思えた。
「達也さんタバコ行きましょう」と行ってベランダに出てタバコを吸う佐村河内、大好きだと話す豆乳をコップになみなみと注ぐ佐村河内、かつてはニュース渦中にいた彼の人間くさい一面にハッとしてしまった。
そしてベランダから見える景色がすごく綺麗だった。
あの時、森達也のはるか下の線路を走り去る電車の中にいたであろう人々、眼下に広がる家々で暮らす人々、彼らは恐らくベランダでドキュメンタリーを撮影していることなど知らずに日常を過ごしていたのだろう。
佐村河内にも佐村河内夫妻にも日常はある。
騒動に疲れた佐村河内が、最後の最後で少しだけ光が降り注いだように思えた、エンドロール後の映像、その最後でまた森達也から意味深な言葉を投げかけられたような気持ちになった。
真実か嘘か、二択のカードを裏返しては表にし、いつのまにかカードの裏表がわからなくなる。
そんな感覚に近いかもしれない。
映画館を出てしばらくしてから「そういえばあの消火器の件はなんだったんだろう」と思ってしまう、観た人の心を揺さぶり続ける森達也の傑作だと思う。
あと、猫が可愛い。
猫がスクリーンに映る度に「猫が可愛い」と思った。
しかし冒頭のあの絶妙な猫の表情は印象深かった。もしかしてあの表情は、ほら、また映画「FAKE」について考えてしまいたくなる自分がいる。