FamilyMartってTommy heavenlyとちょっと文字の雰囲気が似てる気がするBlog

何気ない日常、音楽や映画や小説やテレビなどの感想。

僕ハリガネロックが好きだ、中途半端な気持ちじゃなくて。ユウキロックの『芸人迷子』を読んだ。

高校を卒業し、社会人として働き始めたばかりの頃は、同じ高校を卒業し大学生になったばかりの友達とよく遊んでいた。

電車に乗り、その友達が住む町へと向かう。電車の中ではミッシェルガンエレファントの「バードメン」をよく聴いていたので、今でもあの曲を聴くと仙台市から泉市へ向かう電車の景色がふと頭に過る。
 
一人暮らしをしている友達の家で、くだらない話をして笑ったりするのが、とてつもなく楽しかった。
知らない町に1人で向かい、友達と自由気ままに出かけたり夜まで喋ったりする。
友達の友達も呼び、何人かで集まって宅飲みをしたりUNOをしたりした、誰かが持ってきたであろう知らない学校の卒業アルバムを見ながら可愛い女子を探したりした、終わらないでほしいくらいに幸せな夜がそこにあった。
 
友達と別れた帰り道、駅まで歩いている途中で寄ったお店であるDVDを見つけた。
「あ!ハリガネロックだ」
ハリガネロックは昔から好きな漫才師だったのだが、DVDを出している事は知らなかったので嬉しくなった俺は「ハリガネロック in 渋公爆発ロック」と銘打たれたそのDVDを買って帰った。
 
M-1グランプリ2016」が放送された余韻がまだ冷めやらないような12月、普段は特別「お笑い」に興味が無いような人も「銀シャリ面白いね」などと話していたんだろう。
ワールドカップやWBCが放送された翌日「昨日の日本の試合は白熱した」「あの選手のシュートが良かった」と盛り上がるように「スーパーマラドーナの漫才の構成が上手かった、ラストで予想外のオチがくるのはいい」と話したかったが残念ながら今年のM-1はリアルタイムで見る事が出来なかった。
仕事終わりにふと見たTwitterで結果を知った。
正直優勝者よりも敗者復活戦でもっと面白い漫才師がいたのにという気持ちが強かった。Aマッソの漫才が決勝の舞台で見たかった。「エル・カブキ、金属バット、ランジャタイがどうして決勝行かないんだ」と思った。
幼い頃からサッカーや野球に興味が無い俺が、こんなにも大会の結果に熱くなるのは「お笑い」だけである。
 
一番最初のM-1グランプリが放送されたのは2001年。
当時は小学校高学年だった俺は放送をリアルタイムで見ていた記憶がある。
番組冒頭からとんでもない熱量が画面越しに伝わってきた。
お笑いや漫才を熱心に見てきてない俺にすら「すごい大会が始まる」というのがわかった。
第一回目の決勝進出メンバーを見てみれば中川家フットボールアワーキングコングチュートリアルおぎやはぎと現在ではTVで大活躍中の人気コンビが勢ぞろいしている。今思えばフットボールアワー後藤は代名詞ともいえる「高低差ありすぎて耳キーンてなるわ」などの例えツッコミをしていないし、キングコング西野は絵本を描いたりしていない、チュートリアル徳井の妄想っぷりは影を潜めていたし、おぎやはぎは今ほど知名度の高い感じでは無かった気がする。
お笑いブーム前夜の雰囲気の中、TVのゴールデンタイムで全国区の番組でネタを披露出来る、夢のような大会がそこにはあった。
 
「疲れてる場合ちゃうぞ!」
黒い革ジャン、胸にはドクロマーク、ウォレットチェーン。
漫才師とは思えぬパンクな出で立ちの男は漫才の始めに客席に向かってそう言い放った。生放送の長丁場、最後に出てきた漫才師がハリガネロックだった。
淀みないユウキロックの喋りのスピードと面白さに圧倒された。
切れ味鋭いその漫才はまさにロックだった。ロックを聴く前にハリガネロックの漫才でロックを知ってしまった。
俺のロックの原体験はNIRVANAでもなければミッシェルガンエレファントでもなくブルーハーツでもなかった、一番最初はハリガネロックだった。
 
2004年、お笑い史における何度目かの「お笑いブーム」が直撃した時、俺は中学生だった。
ネタ番組をビデオに録画したりと中学生という多感な時期に「お笑い」にすっかり魅了されていた。
そんな2004年のM-1グランプリが強烈だった。
南海キャンディーズトータルテンボスPOISON GIRL BAND東京ダイナマイトが初の決勝進出を果たし、それまでには無かった新たなる風が吹き荒れていた。
あの年以降、M-1グランプリを熱心に見るようになりさらに「お笑い好き」の気持ちを高ぶらせていった。
スポーツが苦手でプロ野球サッカーワールドカップを観る事に一切興味無かった俺が唯一熱くハマったものが「M-1」だった。
 
しかし2004年以降、ハリガネロックM-1グランプリの決勝の舞台にはいなかった。
 
ハリガネロック in 渋公爆発ロック」を観たあの日「あぁ、やっぱり俺はハリガネロックの漫才が大好きなんだな」と心底思った。
漫才師のあのシルエットのカッコ良さは何なんだろうか、センターマイクの前に立つ漫才師のあの佇まいに憧れた。
舞台に立ち、喋り、爆笑を掻っさらう。
とにかくカッコ良かった。
 
不平不満や本音を言うのが苦手な俺が、キレキレの口調で世間の風潮や道行くカップルにまで漫才中に「ボヤキ」を炸裂させるユウキロックのストレートな芯の強さに憧れたのかもしれない。
 
人生で一度だけ、漫才をしたことがある。
 
社会人として働き始めたばかりの頃、夜に友達何人かでカラオケに行った事があった。その時に「一発ギャグ大会をしよう」というようなノリになったのだ。
「一発ギャグ大会」と言うのに「ピストルのおもちゃが入ったおもちゃ会社の営業マンの持つカバンと本物のピストルが入った殺し屋のカバンが入れ替わる」という一人ショートコントを演じた俺がキンキンにスベッた事はさておき、その場のノリで友達と漫才をすることになった。
 
憧れの漫才が出来る。
 
テンションが上昇した。
 
真夜中のカラオケボックス、見えないセンターマイクに向かって俺は喋りまくった。
「真夏にプールにいったらブサイクばかりでね」と柄にもなく毒舌をぼやいたのは、きっと俺の「笑いの血」にハリガネロックの漫才が脈々と流れているからかもしれない。
 
漫才をした。
 
嬉しくて仕方がなかった。
 
あの日俺は一瞬だけ「ユウキロック」に「漫才師」になれた気がした。
 
2014年、ハリガネロック解散した。
 
「嘘だろ」と思わず呟いてしまった。
大好きで憧れに憧れた漫才師が解散した。
そして漫才師「浅草キッド」の水道橋博士を筆頭に名だたる著名人が連載しているメルマガ「博士のメルマ旬報」でユウキロックの連載が始まった。
「芸人迷子」というタイトルのその連載には漫才師だったユウキロックが全身全霊を注ぎ、赤裸々に、裸どころか体内の血管や骨すらもさらけ出すぐらいの勢いで漫才師としての生き様と終わりがそこに書き連ねてあった。
 
伝説になった2005年のM-1グランプリブラックマヨネーズの漫才の衝撃、漫才とは何か漫才師とは何かお笑いコンビとは何か、その問いに血眼になりながら冷静に答えていくユウキロックの姿を想像してしまった。
 
連載が開始した頃からずっと「書籍化してほしいな」と願っていた。
2016年に願いは叶った。
ユウキロックの「芸人迷子」が書籍化された。
 
嬉しくて仕方なかった。
 
「芸人迷子」を読んだ。
ページをめくる度にユウキロックの告白はより濃さを増し白熱していく。
漫才師としての生き様が深く深く刻まれていく。
 
最後の方に綴られていた千原ジュニアのエピソードには特に胸を貫かれた。
俺がユウキロックと同じくらいに、いやそれ以上に憧れに憧れているのが千原ジュニアだ。
その章に書いてある「ジュニアさんの一言一言が今でも俺の指針になっている。」という一文に激しく頷いた。
千原ジュニアの著書や「チハラトーク」のDVDに多大なる影響を受け指針にしていた俺だからだ。
 
久々にミッシェルガンエレファントの「バードメン」が聴きたくなった。
 
「イナズマを呼んできてほしいと言え」とチバユウスケは歌う。がなる。
 
チバのがなり、ユウキロックのぼやき、絶望も暗闇も全部切り裂いてくれるのはロックとお笑いだと俺は思う。